SF Magazine Book Review

1996年2月号


『遠き神々の炎』ヴァーナー・ヴィンジ

『荒れ狂う深淵』グレゴリイ・ベンフォード

『青い瞳のダミア』アン・マキャフリイ

『ロスト・ワールド――ジュラシック・パーク2』マイクル・クライトン


『遠き神々の炎』ヴァーナー・ヴィンジ

(1995年11月24日発行/中原尚哉訳/創元SF文庫/上下各780円)

 先月の『ドゥームズデイ・ブック』に引き続き、九二年度のヒューゴー賞受賞作(この年は同時受賞)が刊行された。しかもそのどちらも傑作であったのだから嬉しくなってしまう。何とはなしに最近の賞は当てにならないと勝手に信じ込んでいたのだが、その思い込みはこの年に限っては見事に裏切られたと言ってよい。ヴァーナー・ヴィンジの『遠き神々の炎(上・下)』は、銀河系を舞台として壮大なスケールで繰り広げられる善と悪の戦いと、それに巻き込まれた一家族の運命とをリアルに描ききって波瀾万丈、勇猛果敢、血沸き肉躍る一大冒険叙事詩なのである。
 人類が誕生してから遥かな時が過ぎ去った遠未来。銀河系には人類を含めた多くの知的種族が生息し、交流を行っていた。実は銀河系は空間の特性によって、中心から順に、思考速度が落ち知的生物が生息できない無思考深部、決して光速を超えることはできない低速圏(地球はここに含まれていた)、光速を超えることが可能でコンピュータの処理速度も速くなり通信によるネットワークが張り巡らされている際涯圏、の三つの領域に分類され、また、その外側は多くの文明種族の理解を超えた神仙が住む超越界となっている。  超越界に入り込んだ領域でアーカイヴと呼ばれる記録庫を発掘調査していた人類は、五〇億年間封じ込められ眠りについていた邪悪な意識を呼び覚ましてしまう。自らの過ちに気づき邪悪意識を倒す鍵を持って密かに脱出を図った人々だが、ついに目覚めた邪悪意識によりほぼ全滅、唯一生き残った一家族の宇宙船はある惑星に辿り着く。そこは長い首を持った犬のような外見をし、群体で精神活動を行う種族(鉄爪族)が互いに権謀術策の限りを尽くして争いを繰り広げる、中世さながらの世界であった……。
 この世界に生き残り、それぞれ敵味方に別れた幼い姉弟の運命と、弟とコンタクトを取り何とか邪悪意識を倒す鍵を手に入れようとするラヴナ・バークスヌトの冒険行が交互に語られ、徐々にユニークかつエキゾチックな設定が浮かび上がってくる様は圧巻の一言。基本的には異世界におけるサバイバルものに分類されるのだろうが、この流れに、超越者同士の争い、超光速通信によって可能となった銀河系内でのネットワーク通信(嘘八百ネットと呼ばれ、見当違いのデマ、過激なアジテーションが飛び交っているのが面白い)、超光速で繰り広げられる宇宙艦隊戦闘など、これでもかと言わんばかりにつぎ込まれたアイディアの奔流がそそぎ込み、見事な大河ドラマを形成している。
 かてて加えて特筆すべきは、ヴィンジの描写力の確かさ、筆運びの巧みさであろう。リレー星系でラヴナが体験する異世界風景の鮮やかさ(天空いっぱいに広がる銀河系、緑色の夕焼)、練りに練られた鉄爪族やスクロードライダーなどの異星種族の生態描写など、目の前に実際の風景が浮かび、潮の匂いが漂ってくるかのような細やかさである。
 壮大なスケールの設定、ほとばしるアイディア、リアルな描写と三拍子揃った本書はまさしく「E・E・スミスとオラフ・ステープルドンを軽々と超えた」(G・ベンフォード)宇宙冒険物語の金字塔と呼べるだろう。

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『荒れ狂う深淵』グレゴリイ・ベンフォード

(1995年11月30日発行/冬川亘訳/ハヤカワ文庫SF/780円)

 そのベンフォード自身のシリーズ第五作『荒れ狂う深淵』もまた、ヴィンジに劣らぬスケールの大きさで迫る気宇壮大な物語となっている。
 前作『光の潮流』の最後で、銀河の中心へと出発したキリーン率いるアルゴ号は、いよいよ銀河の〈真の中心〉へと向かう。そこはイーターと呼ばれるブラック・ホールであり、星を飲み込んでいる真っ最中。アルゴはブラック・ホールの自転による渦動によって出現する〈時間の闘技場〉に入り込む。この中でアルゴ号は別の時空(スペースとタイムの頭文字を取ってST=エスティと呼ばれる)に到着するが、ここにもまたメカニカル対人類の闘いは影を落としていた……。
 ハードSFファンはもちろんのこと、完全文系の筆者のように理論的な裏付けが理解できない者でも、その銀河の核の描写の美しさ、異質さは十分に味わうことができる。また、物語の後半、キリーンの息子トビーが一人で冒険を続けるうちに父からの自立を果たす場面は特に印象に残った。本書では、ガチガチのハードな描写と一人の少年の成長物語が実にうまく融合されているのである。アブラハムからキリーンへ、そしてトビーへと三代に渡って引き継がれた探索の旅はどんな終幕を迎えるのか。最後に登場する意外(でもないか)な人物との絡みも含めて、完結編たる次作への期待が大いに膨らむ一冊である。

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『青い瞳のダミア』アン・マキャフリイ

(1995年10月31日発行/公手成幸訳/ハヤカワ文庫SF/740円)

 同じ銀河系を舞台にしながらどうしてこうも違うのだろうと無益な問いを思わず発してしまうのは、アン・マキャフリイの『青い瞳のダミア』が、前作『銀の髪のローワン』の主人公ローワンの娘ダミアを主人公とした家族(ファミリー)の絆を中心にしているが故に、余りにも「親しげ(ファミリア)」な銀河系の姿を描いているからに他ならない。
 強大な超能力を持つローワンの娘ダミアは、幼い頃からローワン腹心の部下アフラや祖母のイスティアたちに暖かく見守られながら成長する。親譲りの能力を認められてオーライガ・タワーの最高責任者となったダミアは、銀河に近づく異星生命体とのコンタクトに成功するが、実はその異星生命体は恐るべき野望を企んでいた……。
 というメインストーリー(『塔の中の姫君』所収の短編「精神の邂逅」を原型とする)が始まるのは本書の三七〇頁が過ぎてから。それまでは延々と一人の少女の成長物語につきあわされるわけだ。面白くないことはないのだが、ベンフォードとは違って、どうも異星人との接触という物語とうまく融合しているとは言い難い。最後に登場するムルディニ人との絡みも含めて、こちらも次作に期待という所か。

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『ロスト・ワールド――ジュラシック・パーク2』マイクル・クライトン

(1995年11月25日発行/酒井昭伸訳/早川書房/上下各1600円)

 谷川俊太郎に「生長」という詩がある。「三歳/私に過去はなかった」に始まり、年を取るにつれ過去の認識が変わっていくことを詠んだ詩だ。「七歳/私の過去はちょんまげまで」、そして、「十一歳/私の過去は恐竜まで」。SFの黄金時代が十二歳だ、とは良く引用される言葉だが、おそらく恐竜の黄金時代もまた十一、二歳なのではないだろうか。多くの読者と同様にかつて恐竜大好き少年であった筆者もまた、『ジュラシック・パーク』には小説・映画ともに興奮させられた口である。映画の方はストーリーを単純化し過ぎたきらいはあるが、あれだけ動く恐竜を見せつけられたら恐竜ファンとしてわくわくしないわけがないだろう。あの興奮を再び――というわけで、待望の続編が刊行された。その名もズバリ『ロスト・ワールド――ジュラシック・パーク2(上・下)』である。
 前作にも登場したイアン・マルコム教授が今回は中心人物となり、他数名を率いて、恐竜が姿を見せると噂のコスタリカのある島を訪れる。そこには「パーク」の破棄とともにいなくなったはずの恐竜が多数生息していた。島はいつの間にか「失われた世界(ロスト・ワールド)」と化していたのである! かくして島に乗り込んだ探検隊の恐竜からの死を賭けた脱出行が始まる。なぜ恐竜はこの島にだけ生き延びていたのか? また、マルコム教授の語る六五〇〇万年前の恐竜絶滅の秘密とは?
 という具合で、物語はアクションに次ぐアクションの連続、一時たりとも止まらぬジェットコースターのように進んでいく。かなり映画化を意識した造りになっており、車中の人間を襲うティラノサウルス、ヴェロキラプトルによる人間狩り等前作からのお約束シーンを初め、崖から宙づりになった車からの脱出場面など早く大スクリーンで見てみたいものである。この島にだけ恐竜が生息していた理由がかなり強引、島に後から上陸した敵役の人々があまりにも間抜け、等欠点はいくらでも指摘できるが、マルコムが披露する恐竜絶滅説は斬新かつ独特のもの。現代のインターネット文化に対する警鐘ともなっていて、誠に興味深い。この説を拝聴するためだけでも、本書には一読の価値があると言えるだろう。

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