SF Magazine Book Review

1995年7月号


『宇宙のランデヴー4』A・C・クラーク&ジェントリー・リー

『二〇世紀のパリ』ジュール・ヴェルヌ

『ノヴァ急報』ウィリアム・バロウズ


『宇宙のランデヴー4』A・C・クラーク&ジェントリー・リー

(1995年4月30日発行/冬川亘訳/早川書房/上下各2000円)

 クラークの最高傑作は何かと言われると、ちょっと考え込んでしまう。地球の終末と人類の進化した姿を淡々とした筆致で描きながら強烈な余韻を残す『幼年期の終わり』か、不滅の都市ダイアスパーと少年アルヴィンの冒険を通して人類の再生を謳いあげた『都市と星』か、それともその原型となった『銀河帝国の崩壊』か……。どうしてもいわゆる遠未来ものになってしまうのは、人類とその運命というような大仰な問題をぐっと退いた視点から見つめて語るというクラークならではの語り口が最も効果を発するのが、こうした諸作においてであるように思われるからだ。「この作品には、ブラッドベリのデリカシーはないかもしれない。だが、その持つ情感は、ブラッドベリのそれに十倍するものがある」とはC・S・ルイスが『幼年期の終わり』を評して述べた言葉だが、私にとっては、この言葉がクラークらしさを最もよく表しているようで一番しっくりと来る。地球消滅の瞬間をたった二行の簡潔な描写で済ませ、しかもそこに圧倒的な詩情を漂わせる(『幼年期の終わり』二四章)というのは確かにクラークにしか出来ない至芸であろう。
 この「簡潔な描写、豊かな詩情」というクラークの特色は、未知の風景、未知の物体を描くときにも大変効果的である。『幼年期の終わり』一八章で子供達が夢見る様々な天体の風景、『二〇〇一年宇宙の旅』四三章でボーマンの見る太陽面上の生命体、などの描写にシビれてしまった方も多いのではないだろうか。私など、「これぞ、SF」とのたうち回って喜んだ口である。遠未来ものに限らず、七〇年代の傑作『宇宙のランデヴー』でも、この特色は遺憾なく発揮されている。ラーマと名づけられた、直径二〇キロ、長さ五〇キロの円筒型の物体の中に入り込んだ人々が目にする驚異的な光景の連続。そして、奇怪な風景が論理的に解けていく謎解きの快感。思索的な深みに欠ける嫌いはあるが、クラークらしさを満喫させたこの作品は、あらゆる賞を総ナメにしたというのも充分納得できる完成度の高さを誇っていたものだった。
 さて、すっかり前置きが長くなってしまったが、その『宇宙のランデヴー』の続編が、『宇宙のランデヴー4(上・下)』で堂々の完結を迎えた。『2』から『4』まではクラークとジェントリー・リーの共作による一つながりの大長編と見るべきなので、出来れば未読の方は『2』から順に読んでいただきたい。
 二二〇〇年、第一のラーマが飛来してから七〇年後、再びラーマが太陽系にやって来た。今回の調査隊に選ばれた者は、TV界で活躍する女性ジャーナリストのフランチェスカ、熱心なカトリック信者であるオトゥール将軍、アフリカの一部族の血を引いた聡明な女性医師ニコル、シェイクスピア好きの技術主任リチャード、など人種、職種、性格が異なる様々な面々。当然のごとくそこには確執が生まれ、ラーマの探検を思わぬ方向へと導いていく。最後には、三人のメンバーがラーマに取り残されてしまうのだった……(『2』)。
 残されたニコル、リチャード、オトゥールはラーマの中で一三年を過ごし、五人の子供を作る。中核点と呼ばれる居住モジュールにしばらく留まった後、ラーマの代弁者イーグルより太陽系への帰還を知らされるニコル達。中核点に一組のカップルを残してラーマは三たび太陽系へ戻り、二千人の植民者を受け入れる。しかし、ラーマ内の人間居住区ニュー・エデンでは犯罪がはびこり、ついにはクーデターが勃発。強力な独裁政権が誕生し、ニコルは死刑を宣告されてしまう……(『3』)。
 かろうじて難を逃れたニコル達は、異星種属クモダコの住む居住区にたどり着く。一方、独裁政権の力はますます増し、クモダコと交戦状態に陥ってしまう。ニコル達の戦争回避の努力も空しく戦闘が激化しようとしたとき、遂にラーマからの介入が行われた……!(『4』)
 『4』のあらすじは、興をそぐのでこれ以上書かないけれど、この後ラーマは何故作られたのかに対する謎解きがあるとだけは言っておこう。ただし、ここまでの紹介からもわかるように、話の主眼は、あくまでも、夫婦間の軋轢、親子の葛藤、集団内の権力闘争といった人間ドラマに置かれている。主人公ニコルを中心とした家族の絆が、歴然として物語の中心を占めているのだ。家族の愛情こそが何より大切だという古典的なモラルはそれなりに感動的ではあるものの、何もわざわざラーマの中でそれを展開しなくても良いのではないか。麻薬とセックスに溺れた娘ケイティとニコルのやり取りなどを読むにつけ、これは本当にラーマの中なのか、アメリカの下町の話ではないのか、と思われて仕方がなかった。ギャングの話や知恵遅れの青年が真摯な生き方をする話なら、『カリートの道』か『フォレスト・ガンプ』でも観ていた方がよほどマシというものだろう。ほとんどのプロットを担当したはずのリーに、クラークらしさを期待するというのは無い物ねだりになるのかも知れないが、あの『宇宙のランデヴー』の続編、しかもクラークと共作という形を取っているだけに、本シリーズの展開の仕方には強い不満が残った。

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『二〇世紀のパリ』ジュール・ヴェルヌ

(1995年3月25日発行/菊池有子/ブロンズ新社/1500円)

 ジュール・ヴェルヌの新作(!)『二〇世紀のパリ』は一八六〇年代に書かれながらも、出版社が「未熟だ」として出版を断り、以後百年以上も金庫の中に眠っていたといういわくつきの作品だ。翻訳はブロンズ新社版と集英社版の二種類がでているが、前者で読んでみた。
 一九六〇年のパリでは、産業が極度に発達し「独占企業」が国を支配していた。古き良き詩や文学は忘れられ、新しい形の芸術が勃興している。そんな中で、古典芸術を愛する一人の若者が詩人になろうとするが、望みを果たせず、路上に倒れる……というあらすじからもわかる通り、本書は極めてペシミスティックな物語であり、科学技術礼讚という従来のヴェルヌのイメージとは異なる側面をうかがわせている。既にあちこちで言われているように、電磁力を使ったリニアモーターカー、アスファルトを走る自動車、ファクシミリなど、とても百年前に書かれたとは思えない技術予測の確かさも素晴らしいのだが、それだけでなく、人間疎外というシステム社会の生み出す弊害をも予見していた所にヴェルヌの先進性があると思う。確かに芸術論と物語が融合していない点などに未熟さは認められるが、そうした見地において、『未来世紀ブラジル』を連想しながら読み進めるのも一興であろう。

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『ノヴァ急報』ウィリアム・バロウズ

(1995年3月25日発行/山形浩生/ペヨトル工房/2300円)

 ウィリアム・バロウズ初期四部作の一つ『ノヴァ急報』が新訳で刊行された。七八年にサンリオより刊行されてから早くも一七年。読めない状態が長らく続いていたので、まずは再刊を素直に喜びたい。冒頭の強烈なメッセージに引き込まれ、元のテクストを自由自在に切り刻んで構成し直すというカットアップ・フォールドイン手法に翻弄されながらも、一気に読み終えることができた。この異様な迫力、このめくるめくイメージ喚起力はどうだろう。寄生生命体(言語)からの人間を解放しようという主題が、本書の言語遊戯を理解不能の一歩手前でつなぎ止めている。スリリングな読書体験を読者に保証する、極めつけの一冊である。

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