『やけっぱち大作戦』『狙われた使節団』『これが最後の大博打』ジョー・クリフォード・ファウスト
J・P・ホーガンの新作『マルチプレックス・マン(上・下)』が刊行された。毎年のように作品を発表し、それがきちんと訳されているのだから、日本におけるホーガン人気というのも大したものだと感心させられる。本書は、一見はやりの多重人格もののように見えるが、読み進めるうちに科学技術による記憶移植をテーマとした「人工多重人格」ものであることが明らかになり、しかもそこにエスピオナージュがからむという、いかにもホーガンらしい作品に仕上がっている。
近未来の二一世紀。ソ連邦崩壊の後、世界は三つの勢力に別れていた。環境問題対策を優先課題とした結果、産業規制など政府の徹底管理が進み、全体主義社会に近づこうとしている西側統合世界(ウェスタン・コンソリデーション)。これに対して、かつての全体主義への反動から規制緩和、産業重視の自由主義路線を取っているユーラシア共和国連邦(FER)。月への進出を果たし、FERと提携して宇宙開発を推進している宇宙圏(オフワールド)の三つである。
統合世界の中心地アメリカはミネアポリスで平凡な日常生活を送っていた中学教師ジャロウは、脳の定期検診のため治療所で眠りにつく。目覚めると、周囲の様子は一変していた。そこはどう見てもホテルの一室で、どうやら女性と泊まった翌朝らしい。しかも、鏡に写った自分の姿は以前の自分ではなかった! 一体何が起きたのか、探り始めたジャロウは驚くべき事実に辿り着く……。
舞台設定を見れば、冷戦崩壊後の世界で大時代的なスパイ小説を展開するために、ホーガンが東と西をひっくり返しただけだということがすぐにわかると思う。ジャロウはその諜報活動に意識だけが巻き込まれてしまったのである。どのようにしてこのような記憶移植が可能となったのか。少しだけ紹介しておくと、脳の発達をプログラムの形成過程とみなし、ハードに依存しない形でプログラムを保存しておこうという適度にリアルな発想のようだ。こうした発想は、得てして意識とは何かという観念的な議論に発展しがちであるが、決してそこには踏み込まず、あくまで記憶移植から生じる意識と肉体のずれを巧みなアクション小説に仕立て上げるのがホーガンの魅力であり、逆に見れば限界でもある。SFに何らかの先鋭さを期待する筆者のような読者にとって、彼の中庸さは余りにも物足りない。しかし、謎解きとアクションを主軸としたストーリイ展開によって、本書はとにかく読ませるというのもまた否定できない事実である。SFに心地よいエンターテインメント性を求める向きには、自信を持ってお勧めしておこう。
宇宙船エンジェルズ・ラックを操る冴えない宇宙商人メイ船長と世間知らずのお坊っちゃんデュークという凸凹コンビの活躍を描いた宇宙活劇《エンジェルズ・ラック》三部作が、完結を迎えた。各巻ごとにクライマックスが用意されてはいるものの、これはやはり一つの物語とみなした方が正解であろう。一作目『やけっぱち大作戦』で偉人たちの脳内情報を保存したアンプル《エッセンス》を手に入れたメイ船長らは、二作目『狙われた使節団』で豪華客船に寄り道をして新たな冒険を繰り広げながらもアンプルを守り抜き、最終巻『これが最後の大博打』でアンプルを元の所有会社に返しに行くという一貫したストーリイの流れがあるからだ。
その縦糸に、アンプルを間違って注射されて他の人格が頭に入り込んでしまったデュークの葛藤や、匂いでコミュニケートする異星人大使のエンジェルズ・ラックへの押しかけ事件などなどの横糸がからんで更に楽しさ倍増……と言いたい所だが、決してそうはなっていないのが残念な所。つまり、横糸のからみが多いせいなのか、ストレートな活劇と言うにはテンポが悪すぎるのである。また、宇宙を舞台にしている割には敵の集団〈ユエ・シェング〉の描写がチャイニーズ・マフィアそのものだったりして舞台の広がりがさほど感じられないのも欠点の一つとなっている。もう少し焦点を絞り込んでいれば、痛快宇宙活劇の名にふさわしい作品になっていたかも、と惜しまれる作品だ。
SFにおける超能力ものと言えば、すぐに思い浮かぶヴォークトの名作『スラン』に代表されるように、多数者による少数者への迫害、少数者ゆえの悲劇といったテーマを扱うことが多い。多数者優位の力関係を崩さない限り、超能力者はスーパーマンとして英雄視されるにせよ、逃亡者として同情を買うにせよ、特別視されることに違いはないのである。今でもこうした伝統にのっとった作品が多く書かれていることを考えると、マキャフリイが本書『ペガサスに乗る』で、二〇年以上も前に「法律に保護された等身大の超能力者」という新たな視点からとらえた超能力もののパターンを提示していたことに驚かされる。
ガチョウの卵(グースエッグ)と呼ばれる超高感度脳波計の脳波を調べることによって超能力者を見つけることが可能だと気づいたヘンリー・ダロウは妻のモリーとともにアメリカ東部に超心理学研究訓練センターを設立。超能力者をセンターに集めて訓練するとともに、その能力を世のため人のために生かすよう、警察や州知事に協力を申し出る。彼らの活動に反対する上院議員の妨害などに悩まされながらも、センターは法的・経済的な独立を徐々に勝ち取っていくのだった……。
超能力者が世間に認知されていく過程を、マキャフリイは四つの連作短編を通じて濃やかに描いていく。法案を議会で成立させることによって超能力者の地位が格上げする場面など、至る所に多民族であるがゆえに法統治の必要性が増すアメリカという国家そのものが影を落としている所が興味深い。登場する超能力者も「ただ、ことなる波長で動いている」だけで後は普通の人間と変わらない。少しだけ拡張された(エクステンディッド)人間ドラマが読者の感動を誘う、完成度の高い一冊である。
取り上げるのが遅れてしまったが、一一月に発行されていたポール・オースター『最後の物たちの国で』は、滅亡の一途を辿る架空の国を寓話的に、しかしリアリスティックに描いた佳作である。
すべてのものが滅んでゆく国で、行方不明になった新聞記者の兄を探しに来た一九歳のアンナ・ブルームは、物拾い業をしたり避難所で働いたりしながら、この苛酷な世界で何とか生き延びていく。解説にある「これは現在と、ごく最近の過去についての小説だ」という著者の言葉通り、架空の国という体裁を取ってはいるが、その描写は実に丁寧かつリアルで、あたかも今存在している国のことのようだ。現在のサラエボを思わせるという評もむべなるかな、である。ここにあるのは、高らかな生への謳歌ではなく、絶望の果てのかすかな希望でしかない。だが、それこそが真実なのだと思わせるだけの重さが本書にはある。「肝腎なのは生き延びることです」というアンナの言葉を、阪神大震災被害者が体験している苦難への思いに重ね合わせつつ、今月のレビューを終えたい。
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