1994年度(93年12月〜94年10月)翻訳SF概況
/1995年2月号
あまたのSF作家の中でも最も熱狂的な支持者を持つスミスだが、五〇〜六〇年代前半という短い期間に短編を中心に作品を発表しただけなので、とにかく著書の数が少ない。長編一冊、連作短編集一冊、短編集二冊で計四冊。これだけである。ところが、国内では長編一冊と短編集が半分出版されただけという悲しい状態が長らく続いていた。特に短編集は、ベスト版の半分が『鼠と竜のゲーム』と題して出版されたのが八二年。残りの半分が出るのを我々読者は待ち続けた。苦節一二年。ようやく出版されたのが、『シェイヨルという名の星』なのである。
本書を今年度翻訳SF最大の収穫として挙げることに異論のある方は少ないだろう。辛口のレビューで知られる本欄前任者高橋良平氏も、この作品集に関しては、「この甘く苦い物語のタペストリーを体験しないのでは、SFを読んでいる意味は、ない」(本誌九月号)とまで言い切って絶賛している。確かに、西暦四千年から一万六千年(四〇世紀から一六〇世紀!)といった壮大なタイムスケールを一つ一つのエピックとも言える短編で綴っていくスミスの手法には、読者の心を引きつけてやまないものがある。しかし、何よりスミスの魅力の中心は、人間の生と死、愛情と憎悪、苦痛と快感などという普遍的な対立構造を極度に高めておいてから突き放したように提示する、その冷徹な語り口にある。本書に収められた四編は、いずれもスミスの持ち味を堪能できる傑作ばかり。これを機に、残りの作品も早く訳されんことを望む。
スミスが活動していた時代から三十年が過ぎ、SFも随分と様変わりしてきたことは言うまでもない。筆者がSFを読み出した七〇年代後半には、ヴァーリイ、マーティン、カードなどのアメリカ作家が新人として将来を嘱望されていたものだ。その彼らももはや四〇代半ばを迎え、大御所と呼べる風格を備えてきたようである。肝心の作品については、ここ数年カードを除くと翻訳に恵まれていない彼らだったが、今年は特にヴァーリイとカードの主要な新作が同時に出版されるという僥倖を得たため、トピックとして挙げておく。
ジョン・ヴァーリイの方は、何と十五年振りに翻訳された《ガイア》シリーズ第二作『ウィザード』を始め、本国においても久しぶりの長編となった最新作『スチール・ビーチ』、傑作の誉れ高い表題作やヒューゴー、ネビュラ両賞受賞の「PRESS ENTER■」などを含む第三短編集『ブルー・シャンペン』の三冊が刊行された。
特に『スチール・ビーチ』は、これまでのヴァーリイの集大成とも言える作品で、最新のテクノロジーをもとに近未来の人々の日常をリアルに描くという彼の特色が遺憾なく発揮されている。繰り返される死と再生のモチーフが、自殺願望を持ったコンピュータという設定と無理なく結びついているのも本書の読みどころの一つだろう。また、『ブルー・シャンペン』中の諸作からもわかるように、ヴァーリイの作品の持つ明快さというのは、無意味な明るさではなく、人間存在の暗さや社会構造の欠点を正確に認識した上での明るさであることは強調しておいた方がいいのかもしれない。
片やオースン・スコット・カードはと言うと、『死者の代弁者』に続く《エンダー》シリーズの第三作『ゼノサイド』、及び新シリーズ《帰郷を待つ星》の第一巻『地球の記憶』の二冊が刊行されている。
『ゼノサイド』は、相変わらず議論の多い小説で、肝心の物語よりも登場人物たちの示唆に富んだ議論の方が面白いという妙に倒錯した作品となっているが、そこに本書の最大の魅力があることもまた否定できない事実である。様々なレベルで束縛から解き放たれていく主人公達をじっくりと描いた本書は、思索の深さという点では、現在までのカードの作品の中では随一と言える到達度を示していると思う。
さて、時代は、いつの間にやらサイバーパンクが一世を風靡した八〇年代後半を通り過ぎて、九〇年代と相なった。ギブスン、スターリングの次に来るべき新人作家はどうなっているのだろうか。何人かの新人が今年度も訳されているので、まとめて紹介しておきたい。
まずは、イギリスの新人スティーヴン・バクスターの第一長編『天の筏』。重力定数がこの宇宙の十億倍という設定は確かにハードなのだが、そこで展開される物語は、少年が世界の秘密を探り出し、より良い方向へ変えていくというジュヴナイルSFの典型そのまま。重苦しい舞台にも関わらず爽やかな読後感を与えてくれる佳作である。
少年は少年でも、こちらは恐竜少年が主人公となっているのが、ロバート・J・ソウヤーの第二長編『占星師アフサンの遠見鏡』である。恐竜一族が栄える星を舞台に、見習い占星師である主人公アフサンが世界の秘密を発見するというこれもジュヴナイルSFの王道パターン。この二冊は、SFの原点が子供の持つ知的探求心にあることを再認識させてくれた。
マイクル・カンデルの第三長編『キャプテン・ジャック・ゾディアック』は、これらとは正反対に、シニカルな大人の味わいを漂わせているユニークな作品。街が核攻撃され、子供達の間ではドラッグが蔓延する近未来のアメリカで、理想の家族という幻影を追い求めて奮闘する男の悲しくもおかしい物語である。
ファンタジイの衣を纏ってはいるが、骨太の本格SFとしても読めるのが期待の新鋭エリザベス・ハンドの第一長編『冬長のまつり』だ。文明破壊後の二四世紀アメリカ。運命によって引き裂かれた双子の再会という昔ながらのドラマに、禁断の人体実験、未来の男娼館、話す猿人を含む旅芸人たち、など異色のモチーフが絡み合い、クライマックスへと一気になだれ込んでいく迫力はかなりのもの。続編の翻訳が今から楽しみである。
ハンドのような破天荒さこそないものの、エイミー・トムスンの第一長編『ヴァーチャル・ガール』は、オーソドックスなロボットものとして楽しめる落ち着いた作品に仕上がっており、好感が持てる。
他の新人作品としては、反核活動家がマンハッタン計画進行中の一九四三年アメリカにタイムスリップしたら……という設定の妙で読ませるケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースンの『臨界のパラドックス』、思念操作で宇宙を旅するインディアンを描いたトニー・ダニエルの『戦士の誇り』、題名通りマンハッタンをまるごと異星人に誘拐させてしまったジョン・E・スティスの『マンハッタン強奪』などがあった。
最初に基本的な設定を作っておけば、後はキャラクターの魅力で読者を引っ張っていけるのがシリーズものの強みである。新シリーズが人気の《宇宙大作戦》を始め、相変わらず英米では多くのシリーズが書かれているようだ。既に挙げたもの以外で今年度翻訳されたものには、ロイス・マクマスター・ビジョルドの人気作《マイルズ・ヴォルコシガン》シリーズが二冊(『親愛なるクローン』及び『無限の境界』)、今回初の合作長編方式を取った《ワイルド・カード》シリーズ第三騨『審判の日』(G・R・R・マーティン編)、J・P・ホーガンが仮想空間を描くことに挑戦した《巨人たちの星》シリーズ四作目『内なる宇宙』、M・P・キュービー=マクダウェルによる《トライゴン・ディスユニティ》三部作の完結編『トライアッド』、『天空の劫火』の続編であるグレッグ・ベアの『天界の殺戮』などがある。
また、惜しくも一月違いで完結作が今年度に間に合わなかったイアン・ワトスンの野心作《黒き流れ》シリーズ(『川の書』『星の書』)は、異世界ファンタジイの趣きで始まった物語の基本設定自体を二転三転させるという破格の構造を備えた本格SF。全体の評価は来年度回しとなるが、この二冊だけでも今年度の収穫に挙げておきたい。
今年度になってから、最新の海外文学を紹介する叢書が二つスタートしている。一つは、先鋭的なアメリカ文学を取り扱う白水社の《ジェネレーションX》。もう一つは東京創元社の《海外文学セレクション》である。前者からは、ビザールな題材を客観的な視点から描いたマイケル・ブラムラインの短編集『器官切除』、後者からは、騙りの文学を極めたエリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』、核戦争後の島をさまよう女性の心理を描くメグ・ファイルズの『メリディアン144』などが、SFとの接点を持つ作品として挙げられるだろう。
ベテラン及び巨匠の作品としては、不老不死の一族を扱ったポール・アンダースンの力作『百万年の船』、異星種族に育てられた地球人の帰還を描いたフレデリック・ポールの『異郷の旅人』がある。また、ジュヴナイルの新訳として、クラーク『イルカの島』、ハインライン『栄光の星のもとに』が刊行された。
最後に特筆すべき作品を一つ。六〇年代カウンター・カルチャーの申し子であるチャールズ・プラットによるハチャメチャSF『フリーゾーン大混戦』は、SF主要テーマを全てぶち込んだ無茶苦茶な展開に抱腹絶倒間違いなしの怪作である。マニアならずともSFファンは必読のこと。
という所で紙数も尽きた。九五年度の翻訳作品に更なる期待を寄せて、総括を終えたい。
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