前作の結末からしばらく後、姿を消したコリン・レイニーと実存社会学者山崎が東京の地下通路で再会する。膨大なデータの中から結節点(ノーダル・ポイント)を探し出す特殊能力を持つレイニーは、山崎にもうすぐ「あらゆるものが変化する」と告げ、LAでコンビニの警備員をしているライデルに連絡をとるよう依頼する。ライデルは指示を受けてミュージシャン、クリードモアと共に早速サンフランシスコに向かい、レイニーと同じく行方不明となっていたヴァーチャル・アイドル投影麗(レイ・トーエイ)の本体を収めたプロジェクターを手に入れる。一方、ライデルの旧友で元バイク便の配達人であったシェヴェットやナイフを使う謎の殺し屋も、それぞれの理由からサンフランシスコにやってくる。震災後にホームレスがベイブリッジに入り込んで作り上げた独自の橋上空間にあるフォンテーンの店に集結した彼らは、歴史的な事件に遭遇することに……。
本書においては、投影麗に代表される仮想空間文化だけでなく、前作にも増して積極的にコンビニ文化を取り上げている点が興味深い。どうやら、商品の均質性と大量消費を支える確かな流通過程がポップアートをこよなく愛するギブスンを惹きつけて止まないようである。ライデルが警備員を勤め全世界にチェーン店を持つコンビニ〈ラッキー・ドラゴン〉は、物品をデジタル的に複製するナノファックス送信機と受信機による物質転送を計画している。「あらゆるものが変化する」というレイニーの予言には、このナノファックス機が重要な役割を果たしているのでお見逃しなきように。実にさりげなく驚天動地の出来事が描かれているのだが、そうした革新的な事件がライデルやシェヴェットら庶民の生活には何ら直接に関わってこないというのが旧三部作以来のギブスンの基本的なスタンスでもある。
要するに肉体と精神の相克に苦しむ人物がいる一方で、あくまでも肉体にとどまる人物もいるということだ。ライデルやシェヴェット、そしていまという瞬間に生きる殺し屋コンラート達の確かな存在感は読んでいて実に心地良い。彼らには、病気にかかりすっかり弱々しくなってしまったレイニーや、レイニー同様データ処理に関する特殊能力を持ち、広告代理店を経営する世界一の大富豪ハーウッドの頼りなさとは、対照的な力強さがある。大雑把な見方ではあるが、前作では、ヴァーチャル・アイドルと人間との結婚に象徴されていたように仮想空間の方向に向かっていた振り子が、今回は現実空間の方に戻ってきたという印象を受けた。
タイトルのフューチャーマチックとは、一九四〇年代にルクルト社が開発した世界初の完全自動巻き腕時計のこと。本書では、自閉症的な少年シレンシオが殺し屋から受け取り、腕時計に興味を持つきっかけを作る重要な小道具となっている。筆者は時計については全く無知であるが、時計業界では、フューチャーマチックは自動巻きであるため使い続けなければ止まってしまうのに、耐久性がなく使い続けることが出来ないという自己矛盾に満ちた「人間くささ」(DECAY WATCHES ホームページより)を持つ腕時計と評されており、これはまさしく我々の人生そのものを暗示しているようだ。八〇年代、九〇年代と常に現実と共に疾走し、鋭い視点と詩的な文体で現実社会を描き出してきたギブスンもまた、一つのフューチャーマチックであったと言えないだろうか。まだまだアンティークになるには早すぎる。更なるディケイドに向けて、ギブスンの新たな展開を期待したい。
四年にも渡るクラークとキューブリックの共同作業によって、せっかく書かれながらも切り捨てられてしまったエピソードが多数存在していることはかねてから知られていたが、そのエピソードを一冊に集めてクラーク自身のコメントを付した書物が、ついに刊行された『失われた宇宙の旅2001』(原著は七二年刊)である。本書を読むと、筆者がクラークっぽいなあと思っていた小説版『2001年』ですら随分とキューブリックに妥協した結果の産物であり、クラークの色が押さえられていたのだということがよくわかる。もともと映画のための小説執筆であるから仕方がなかったとは言え、クラークは精魂こめて描きあげたエピソードが無残に切り捨てられていく様が忍びなかったのだろう。亜人を導く長身の異星人クリンダー、HALの前身と言うべき人型ロボット〈ソクラテス〉、スターゲートの彼方の海に浮かぶ岩塊など、全く映画には使われなかった設定や小道具が見事に本書では復活しており、読者の想像力を刺激して止まない魅力を放っている。とりわけ、ロボットの場面(十二章)では、二〇〇一年まで生き延びたアシモフが、名前だけだが登場していたりして、にやりとさせられた。映画では技術的な制約からかロボットは一切出て来ないだけに、ここはクラークの科学技術予測の卓越性がうかがわれる好エピソードとなっている。
偶然発生した回路の不具合によって芸術的な才能を持つことになった家政ロボットNDR−114は、マーティン家に仕えるうちにアンドリュー(NDRからの連想)と名づけられ、徐々に人間らしい行動を取るようになる。自由を手に入れたアンドリューが真の人間になるために行った最終決断とは……。皮肉な読み方をすれば、ここまでして人間にならなくてもいいのではないか、そんなに人間は立派なのかと疑ってしまうが、まあ、本書のような作品では素直にロボットの人間への憧れを受け入れて、アンドリューと彼を取り巻く人間の心の触れ合いに感動するのが正しい読み方であろう。